ノマドの足跡

旅、酒、ニュース、仕事関連などなど。思いつくまま書いたものです。

 反米暴動

荘重な音楽が流れる。
ゆっくりとそして整然と歩く、正装に身を包んだ軍人の行列。その中程で、星条旗をあしらった布に覆われて、棺が静かに運ばれていく。
シリアで襲撃され死亡したアメリカ大使と領事館職員の遺体がアメリカに帰国したというCNNのニュース。
このニュースを、日本人である私が、フィリピン・マニラのホテルの一室でみている。
イスラームを侮辱する映像は、アメリカ合衆国政府とは何の関係もない。
ましてや、命を落とした3人の領事館員個人とは全くの関係がない。
この事件自体は凶行というほかない。


問題映像、というよりアメリカに反対する暴動は、中東から東南アジアに至るムスリムの多い国々で広がった。
そしてそのなかで、暴動に参加したムスリムも、数名が命を落としている。
しかし、その人たちの葬儀の映像を、ついぞ私は目にしていない。
そこには明らかに非対称性がある。ごまかさずにいえば、暴動で死んだアメリカの領事館員と一般人のムスリムとは、同じように扱われてはいない。
一方は領事館員で他方は一般人だからだろうか。


CNNが日本のテレビに比べて格段に広く深く世界各地のニュースを報道しているのは確かである。
しかし他方で、アメリカや欧米世界、先進国や主要国に対するバイアスがかかっていることはいうまでもない。
同じようにBBCであればイギリスやヨーロッパへのバイアスがかかっている。
そしてそのCNNやBBCの放送を、今や世界各地でみることができる。
死亡した領事館員のニュースを、私たちは世界各国でみることができる。英語を解すればその内容を理解することもできる。
しかし、同様の出来事のなかで起きた中東の一般人の死を、アメリカ人でもイギリス人でもシリア人でもチュニジア人でもない私のような大多数の人々は、目にすることがない。
その国のニュースでは報道されているのかもしれない。しかしそれは世界中でみられるとは限らない。むしろみられないだろう。そして、それを現地語で理解することにも、困難が伴う。


アメリカに対するムスリムたちのいらだちの本質は、実はこうしたところにあるのではないだろうか。
同じ人間の死に軽重があるのではない。それが、あるものは世界中の多くの人に見られ、理解されるのに対し、他方は一部の人にしかみられず、また理解されないということに。
そして、それは脅されているわけでも無理強いされているわけでもなく、誰もが受け入れられる形で、まさに自然にそうなっていることに、結局は抗することができないという事実に。
ムスリムたちの怒りの根源的な理由は、たとえば、ありもしない大量破壊兵器を理由に徹底的な攻撃を受け国土が崩壊したり、ムスリムの多く住む地域に他宗教の国家を建設することが正当化されたり、そういった具体的な出来事にはないように思う。
それよりも、そうした出来事にもかかわらず、なおも無力でありつづけること、そしてさらに無力になりつつあること、そうした抗しがたい事実に対するいらだちこそがことの本質なのではないだろうか。
いうまでもなく、問題映像は、その引き金に過ぎない。


ムスリムによる凶行的なまでの暴力は、宗教的な問題ではなく、むろん宗教的な具体的な出来事によるものでもない。
このことの原因を、問題映像に求めるのはもちろん、アメリカへの反感やキリスト教世界に対する反感に求めるすることも、問題の本質を見誤らせる。
ムスリムの怒りを、単にアメリカやキリスト教への反感ととらえることで、本当に重要な何かが見過ごされることになるのではないかと思う。