ノマドの足跡

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池内了 『物理学と神』

物理学と神 (集英社新書)

物理学と神 (集英社新書)

革命期フランスの物理学者ラプラスは、この宇宙のすべての運動の過去も未来も、すべてニュートン力学によって説明できると宣言したそうです。
ではそもそも、どうやってこの宇宙は誕生したのでしょうか?
その宇宙開闢の説明について、彼はこう言ったそうです。
それは「神の一撃」であると。


物理学はそもそも、この宇宙と自然をつくり給うた「神」の真意を説き明かすという目的で始まったといいます。
ところが、物理学はその発展とともに、神の真意から離れて行き、ついには神の不在を証明するに至ったそうです。
ラプラスの逸話は、この宇宙の万物が物理学によって解明されるとした神からの独立宣言であるともに、その神から否応なく離れることができないことを、典型的に物語っているといえるでしょう。


アインシュタインまでの物理学は、たとえば、
1+1=2
これが絶対であるという世界だといえます。
しかし、アインシュタイン以後、まさに彼によって創始された量子力学の物理学は、この「1+1=2」が正しいか否かが、確率によって決まるという世界に変わりました。
納得のいかなかったアインシュタインは、この量子論者に対してこう批判したといいます。

「神はサイコロ遊びをしない!」

これに応じた量子物理学者ハイゼンベルク

「サイコロ遊びの好きな神を受け入れればよい。」

ここにも、科学の神に対するアンビバレントな見方が競合しています。
量子力学が「あたりまえ」になった現代の物理学は、サイコロ遊びの好きな、気紛れな神を受け入れています。


このことは、自然と宇宙の根源に迫ろうとする素粒子物理学にかんしてもいえるでしょう。
自然は、神の創造物であり、「神が書いたもう一つの書」。
神は絶対であるがゆえに自然は絶対的に美しい。
従って、雪の結晶のごとく、絶対に美しい「対称性(シンメトリー)」で、自然は構成されると考えられていたといいます。
ところが、素粒子物理学は、シンメトリーでは万物の法則が説明されないという真理にたどり着きます。
この宇宙が誕生するためには、この「対称性」が「破れる」必要があることを証明したのです。
この「対称性の破れ」。
最近ではすっかり有名になってしまいました。
これを発見した日本人の素粒子物理学者がこぞって本年のノーベル物理学賞を受賞したからです。
日本の「神」は、「八百万(やおよろず)」。
日本の神話をみれば、「美しい」と言うよりも、むしろ「むちゃくちゃ」(カオス?)なのかもしれません。
合理的ではなくむしろ不条理。
これら日本の物理学者が新しい発想で物理法則へを到達したヒントは、日本の「神」の捉え方にあったのかもしれません。
むろん、日本の物理学が、「むちゃくちゃ」なわけでも、「不条理」なわけでもありません。
唯一絶対の真理に到達するその道すがら、「八百万」の発想が役に立った、そういうべきなのでしょう。
この「混合」にこそ、原動力があったのではないでしょうか?
「唯一絶対」でも「八百万(むちゃくちゃ)」でもなく、これらの混合です。
その意味で、「神」の概念そのものが多様であること、そこに物理学の可能性が秘められていたのだと、そういえるのかもしれません。


本に戻って、この本のタイトル。
「物理学と神」。
一般的には対極に捉えられるこれらの関係が、歴史のなかで大きく変化してきていることが、この本では、物理学史をひもとくなかから導き出されています。
それは、人間が「物」と「神」との間に存在しているからにほかならないように思われます。
人間は、時に神に近づき、そして時に悪魔に近づく。
その関係性のなかで、物理学と神との関係は、人間を媒介にしながら、対極に位置するばかりでなく、むしろ隣り合わせになってすらいるということが明らかにされます。
物理学のたどってきた長い道のりがこのページ数でわかりやすく描かれていて、それでいて、物理学(科学)と神(宗教)との緊張感あふれる関係がドラマチックに描き出されている、とてもいい本でした。



池内了『物理学と神』集英社新書、2008。

http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-720174-0&mode=1&jya_flg=3

http://www.amazon.co.jp/物理学と神-集英社新書-池内-了/dp/4087201740/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1230616976&sr=8-1