ノマドの足跡

旅、酒、ニュース、仕事関連などなど。思いつくまま書いたものです。

天満天神繁昌亭



26日(金)、大阪は天満天神繁昌亭に行ってきました。
演目は次のとおり。


林家市楼  「看板の一」
林家染左  「素人浄瑠璃
桂珍念  「紙入れ間男」
いわみせいじ  似顔絵
桂福丸  「上燗屋」
桂都丸  「八五郎坊主」
(中入り)
AKO  マジック
桂春駒  「持参金」
桂歌之助  「新作」
笑福亭松喬  「尻餅」


繁昌亭も盛況ですね!
以前、当日で入れなかったことがあったたので今回は予約をしていきました。
ほぼ満席でしたが、これでもマシな方らしく、前日までと翌日からは団体さんが入っていたらしいです。
「今日はゆっくり見れまっせ!」とのこと。

たいへんに申し上げにくいんですが、繁昌亭は全体に小粒な感じにみえます。
これはわたくしの勝手な思い込みなのですが、上方は、もっと元気であってほしい…そんな気が。
そのなかで光ってたのが、歌之助さん。
新作でしたが、はじめ「道具屋」に入ったかな…って思わせるところ、意外でよかったです。
そして、トリの松喬さん。
歌之助さんのネタをいじりながら、爆笑を誘ってました。
女房の尻を叩いて餅つきのマネをするという演目。
むろん滑稽話ですが、季節感があってよかったです。

それはそうと、11月末、京橋に吉本の劇場「京橋花月」ができたというのを、大阪に着いてから知りました。
そういえば10月に「うめだ花月」は閉めたらしいですが、その代わりにしては立派な劇場のようです。
なんとなく大阪は「漫才」の方が「本流」なのかな。。。そんな気がしてしまいます。
頑張れ!上方落語




繁昌亭は大阪天満宮のすぐ隣にあります。
(実際は天満宮の敷地内らしいです。)

池内了 『物理学と神』

物理学と神 (集英社新書)

物理学と神 (集英社新書)

革命期フランスの物理学者ラプラスは、この宇宙のすべての運動の過去も未来も、すべてニュートン力学によって説明できると宣言したそうです。
ではそもそも、どうやってこの宇宙は誕生したのでしょうか?
その宇宙開闢の説明について、彼はこう言ったそうです。
それは「神の一撃」であると。


物理学はそもそも、この宇宙と自然をつくり給うた「神」の真意を説き明かすという目的で始まったといいます。
ところが、物理学はその発展とともに、神の真意から離れて行き、ついには神の不在を証明するに至ったそうです。
ラプラスの逸話は、この宇宙の万物が物理学によって解明されるとした神からの独立宣言であるともに、その神から否応なく離れることができないことを、典型的に物語っているといえるでしょう。


アインシュタインまでの物理学は、たとえば、
1+1=2
これが絶対であるという世界だといえます。
しかし、アインシュタイン以後、まさに彼によって創始された量子力学の物理学は、この「1+1=2」が正しいか否かが、確率によって決まるという世界に変わりました。
納得のいかなかったアインシュタインは、この量子論者に対してこう批判したといいます。

「神はサイコロ遊びをしない!」

これに応じた量子物理学者ハイゼンベルク

「サイコロ遊びの好きな神を受け入れればよい。」

ここにも、科学の神に対するアンビバレントな見方が競合しています。
量子力学が「あたりまえ」になった現代の物理学は、サイコロ遊びの好きな、気紛れな神を受け入れています。


このことは、自然と宇宙の根源に迫ろうとする素粒子物理学にかんしてもいえるでしょう。
自然は、神の創造物であり、「神が書いたもう一つの書」。
神は絶対であるがゆえに自然は絶対的に美しい。
従って、雪の結晶のごとく、絶対に美しい「対称性(シンメトリー)」で、自然は構成されると考えられていたといいます。
ところが、素粒子物理学は、シンメトリーでは万物の法則が説明されないという真理にたどり着きます。
この宇宙が誕生するためには、この「対称性」が「破れる」必要があることを証明したのです。
この「対称性の破れ」。
最近ではすっかり有名になってしまいました。
これを発見した日本人の素粒子物理学者がこぞって本年のノーベル物理学賞を受賞したからです。
日本の「神」は、「八百万(やおよろず)」。
日本の神話をみれば、「美しい」と言うよりも、むしろ「むちゃくちゃ」(カオス?)なのかもしれません。
合理的ではなくむしろ不条理。
これら日本の物理学者が新しい発想で物理法則へを到達したヒントは、日本の「神」の捉え方にあったのかもしれません。
むろん、日本の物理学が、「むちゃくちゃ」なわけでも、「不条理」なわけでもありません。
唯一絶対の真理に到達するその道すがら、「八百万」の発想が役に立った、そういうべきなのでしょう。
この「混合」にこそ、原動力があったのではないでしょうか?
「唯一絶対」でも「八百万(むちゃくちゃ)」でもなく、これらの混合です。
その意味で、「神」の概念そのものが多様であること、そこに物理学の可能性が秘められていたのだと、そういえるのかもしれません。


本に戻って、この本のタイトル。
「物理学と神」。
一般的には対極に捉えられるこれらの関係が、歴史のなかで大きく変化してきていることが、この本では、物理学史をひもとくなかから導き出されています。
それは、人間が「物」と「神」との間に存在しているからにほかならないように思われます。
人間は、時に神に近づき、そして時に悪魔に近づく。
その関係性のなかで、物理学と神との関係は、人間を媒介にしながら、対極に位置するばかりでなく、むしろ隣り合わせになってすらいるということが明らかにされます。
物理学のたどってきた長い道のりがこのページ数でわかりやすく描かれていて、それでいて、物理学(科学)と神(宗教)との緊張感あふれる関係がドラマチックに描き出されている、とてもいい本でした。



池内了『物理学と神』集英社新書、2008。

http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-720174-0&mode=1&jya_flg=3

http://www.amazon.co.jp/物理学と神-集英社新書-池内-了/dp/4087201740/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1230616976&sr=8-1