ノマドの足跡

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【本】 立川談春 『赤めだか』

赤めだか

赤めだか



 本書は、第1話から第8話とその後の特別篇その1とその2から構成されています。本篇となる第1〜8話は、談春の談志門下への入門から二ッ目昇進まで、つまり前座修業時代の話です。本書は談春の半自伝的エッセイですが、その前座修業時代にスポットを当てているところがおもしろい。
 もちろん、二ッ目、真打ち時代にもさまざまなおもしろいエピソードはあるのでしょう。もしかするとそれらはのちにまた出版されることになるのかもしれません。しかし、前座修業時代に焦点を当てたということは、そこにこそ、落語家としての生き方のエッセンス、そして談志門下として生きることのエッセンスが詰まっているということなのではないでしょうか。


 談志門下はタイヘンです。まず、落語協会落語芸術協会という「組織」に属していないという点でタイヘンです。端的には、彼らは東京に4つある定席の寄席に出ることができないという点でタイヘンなわけです。それは活動の場が大きく制約されるということであり、同時にとくに前座にとっては修行の場(楽屋仕事や鳴り物なども)が限られるということを意味します。ということは、前座修行の場はもっぱら、談志(イエモト)の身の回りということになり、具体的にはイエモトの自宅ということになります。ところが、このイエモトこそ―ひろく知られているとおり―破天荒で、一筋縄ではいかないヒトなのです。その人の身の回りの世話を四六時中続けることになるのですから、それはそれは、タイヘンです。これが二つめのタイヘン。
 この、破天荒な師匠の世話をするなかで、もちろんのこと、さまざまな出来事が起きます。さまざまなエピソードが生まれます。この本はまさに、そうしたエピソードを盛り込んで作られたものです。おもしろくないはずがありません。


 もっとも、私たちが思っているほど、イエモトは破天荒でわがままで、そして駆け出しの弟子として修行中の前座たちにとって、鬼・悪魔のような存在として描かれているかというと、これは私の印象ですが、案外、そうでもないように思われます。もちろん、酷いエピソードには事欠かないし、談春自身も含めた弟子たちが、いかにイエモトに気遣っていたかを匂わせる記述も散見されます。しかし結局は、イエモトが「いい人」として描かれているように思われます。これは決してウソではないのでしょう。他の弟子がどう考えているかはともかく、少なくとも談春にとっては、イエモトは心の底から敬愛する師匠であり、おそらく師匠というよりも前に、一人の人間として尊敬しているのだと思います。どんなに不条理なことをいわれようが、されようが、それゆえに談志は「悪人」としては描かれません。


 敢えて、イエモトが「悪人」然と読めるところがあるとするなら、それは一番最後の章、「特別篇その2」で書かれている、談春の真打昇進にかんするエピソードでしょう。「真打昇進」?前座修業時代ではないので、そのエピソードは「特別篇」に入れられています。それも、「小さんと談志」と題された章。いわば、番外編ながら、私にとってはこの章がいちばんおもしろかったです。というか、泣けました。
 では、「小さんと談志」のテーマで、どうして談春の真打昇進のエピソードが書かれているのか?それは本文に当たってもらうことにして、談春の真打昇進それ自体が、いわばひとつの「事件」であったのです。というより、談春と「同期」ながら、半年ばかり遅れて入門してきた「志らく」が、談春を抜いて真打ちになったことが「事件」だったのです。
 談志は、談春を抜いて志らくが真打になることを認めた。それは、実力も十分であった談春にとっては、ひどい仕打ち以外の何ものでもなかったわけです。談春自身もそして周りの人も、このときばかりは談志が「悪意」をもっているように見えたでしょう。
 このとき談春はクサリかけます。しかし、さだまさしの励ましに一念発起、真打になることを心に決めます。しかしそれからがたいへんです。普通に真打になっても、志らくの「後追い」にしかならない。イエモトを見返すことはできない。そこで画策したのが、真打昇進を欠けた6回連続落語会の開催。そしてそのうちの一回には、ゲストに小さんを呼ぶというものでした。実現すればこれはすごい企画です。二ッ目が真打昇進をかけた連続落語会をやるというのは異例だし、何よりそこに、「人間国宝」五代目柳家小さんを呼ぶというのです。なおかつそれだけではありません。小さんこそは立川談志の師匠であり、談志が落語協会を飛び出したときの会長でもあったのです。その小さんを、談志の弟子である談春がゲストに呼ぶというのです。
 結果としてこの企画は実現します。談春の友人でもあり小さんの弟子で実の孫でもある柳家花緑の力添えで、落語会への小さんの出演が実現。しかし問題は、談志を小さんに会わせるかどうか。ある大物代議士が間に入っても手打ちをしなかった二人の師弟、小さんと談志。しかし、談志の弟子である談春の昇進落語会に、特別ゲストで小さんに出てもらうとなると、師匠として談志が挨拶に行くのは礼儀というもの。結果からいうと、この千載一遇のチャンスに、談志は小さんに会わなかった。正確に言うと、花緑が小林家の一族として、小さんを談志に会わせなかったのです。
 その間、そしてその後のエピソードを通じて、破門・絶縁の関係にありながらも、心の底では小さんを尊敬し、敬愛している談志の本心がちらちらと垣間見えます。不器用なのか、それが美学なのか。しかし、談志が小さんの存命中に会いたかったのは、紛れもなく本心であったように思えます。
 小さんの没後、談志の口ぶりから伺われるその本心。それがわかるにつれ、美学や粋なんかではなく、たんに不運だったとしかいいようがないように思われます。要は「すれちがい」だったわけです。そう思うとつくづく、談志とは、たんに破天荒な人間などではなくて、不器用で不運な人間だったのかもしれない、そう思われます。いずれにしてもやはり、談志は「悪人」なんかではなかったのです。
 

 本書は、昨年の講談社エッセイ大賞を受賞したといいます。談春という若手随一の実力派落語家の手によって、談志という、これまた類まれな天才噺家の周りで起きるエピソード、そのもっとも身近にいた前座時代の弟子が特権的に知り得たエピソードがつづられた本書が、傑作でないはずがありません。しかし、たんに常識はずれな世界で起きていることを書いた、いわば「希少価値」として、本書が評価されたわけではないということは、いうまでもありません。本書は、談春の鋭い洞察力によって、それらのエピソードが上手く切り取られているばかりではなく、談志という天才の本質を見抜いていた点こそが、評価されるべき点であるといえましょう。そしてそれは、談志が小さんに対して抱いていたように、談春が談志に対して抱いている、何ものにも代えがたい敬愛の念があったからこそ、可能になったのです。